第010回 聖徳太子のめざした政治について

今回は、聖徳太子がどのような政治を目指したのかを考えていきましょう。

その1 お隣の政情は…

さて、彼のことを考える前に、朝鮮半島ではどのようなことが起きていたのでしょうか。

なぜ、東アジアの国の情勢を知る必要があるのかというと…

東アジアの方が、日本よりも進んだ国が多かったからのです。

当時、その国々を見習って、日本国内の政治を決めていたのです。

それでは、まず、朝鮮半島の情勢からみていきましょう。

6世紀に百済(くだら)や新羅(しらぎ)が勢力を強めていました。

その勢力は、日本の大和政権と交流があった伽耶(かや)地域を併合したのです。

では、中国はどうだったのでしょうか。6世紀末、隋が南北朝を統一して大きな帝国を

築きました。それが「(ずい)」です。

北朝は、北魏(ほくぎ)

南朝は、宋(そう)

です。それを統一した人物はというと、煬帝(ようだい)という人です。

569年に生まれ、618年に亡くなりました。

その間、約1500㎞の大運河を建設し、今もなお、使われています。

ところが、煬帝(ようだい)が高句麗への遠征(612~614年)したとき、

その遠征が失敗に終わり、家臣に殺されてしまいました。

それでは、彼の政治はというと…

1.土地や税、兵の制度を整えること。

2.試験をして人材を集めること。(科挙(かきょ)といいます)

3.大運河を建設すること。

でした。

よく覚えておいてくださいね。このうちのどれかを聖徳太子が真似をしますから。

この大運河は、南北に分かれていた中国を一つにする役割を担いました。

ちなみに遣唐使もこの大運河を利用しています。

明の時代にまた、運河は拡張されましたが、19世紀の後半には衰退して

現在では、地方の交通路として利用されているのです。

さて、この煬帝(ようだい)という人は、信心深く、仏教徒でした。

そして、詩人の才能もある政治家だったのです。

このこともよく覚えておきましょう。

聖徳太子はどんな人かがわかれば、なぜ、いま、煬帝(ようだい)のことを

言っているのかがわかると思います。

その2 そのとき、国内では…

地方の豪族が反乱を起こしていました。

荒れていたのです。

蘇我氏や物部氏らが、それぞれが支持する皇子(おうじ)を大王(おおきみ)にしようとして争っていたのです。

日本国内が荒れていたのです。

そこで、誰をリーダーにしようかと思案した挙句、

そうだ、女性を立ててみようというわけで、推古天皇が即位したのです。

あの卑弥呼も謎の女性だったように、推古天皇も女性です。

いまだったら、皇室典範により男子しか天皇になれませんが…

ま、それはさておき、女性の推古天皇が実権を握ることになったのです。

その3 大和地方の豪族

氏(うじ)という集団がありました。それは、共通の先祖でつながる集団のことです。

つまり、血筋を大切にしたんですね。

いまでも、家柄を大切にする風習があるのはきっと、その名残でしょう。

例えば、蘇我氏、物部氏など。

氏(うじ)ごとに大和政権の仕事を担当していました。

あの有名な蘇我氏は財務担当でした。

そして、大王から大和政権での地位を表す称号を与えられたのです。

物部氏は、連(むらじ)。蘇我氏は臣(おみ)

というわけで、地域にしばられることなく、氏の集団ができました。

それが、豪族の集団になっていったのです。

つまり、これは、立地条件の良い王宮の場所を選ぶことができたことを意味します。

その4 推古天皇と聖徳太子の関係

推古天皇は、先にも書きましたが、女性。荒れた世を立て直すためとはいえ、

女性だけの力では心細いものです。

そこで、摂政として甥(おい)の聖徳太子を任命します。

家系図を見ればわかりますが、聖徳太子は、用明天皇の子。

推古天皇は、用明天皇と兄弟関係です。

しかも、聖徳太子は蘇我氏とも物部氏とも関係があることがわかります。

つまり、この蘇我氏と物部氏が中心となって誰を大王にするかでもめた大和政権を鎮めるのに

この聖徳太子を摂政として政治的手腕を振るわせようと、叔母の推古天皇がしたわけです。

この摂政という地位は、天皇が女性だったり、子どもだったりしたときに置かれ

天皇の代理として政治を行います。

当時、中国や朝鮮の方が進んでいましたから、彼らのやり方を学び、

蘇我馬子(そがのうまこ)と協力しあい、

大王(天皇)を中心とする政治制度を整えようしたのです。

中央集権型の政治を行うのがめあてでした。

ちなみにこの「天皇」という呼び方は、一体、いつから呼び始めるようになったのでしょうか。

実は、諸説あります。

・遣隋使を派遣した推古天皇の時期という学説

・大王(天皇)の地位が大幅に高まった天武、持統天皇の時期という学説

の2つに分かれています。

興味のある人は、調べてみてくださいね。

ところで、推古天皇の甥の聖徳太子の顔ですが、よく教科書や副教材に載っていますね。

私自身、その顔が聖徳太子だって、教わってきました。

教科書や副教材をよーく読み込んでる人は、気づくと思いますが…

その写真の説明に「聖徳太子と伝えられる肖像画」とか「伝聖徳太子」と表記されています。

なぜ?っと思うかもしれませんね。

実は、長い間、聖徳太子だと思われていたこの肖像画は、

識者の間で、別人ではないかという疑問が出てきているからなのです。

いまさら、どうして?と思う方もいらっしゃるかと思いますが、

実は、当時の服装や装飾品とこの肖像画の内容が一致しないというのです。

だから、見慣れた聖徳太子は別人…というわけなのです。

歴史に興味のある人は、ぜひ、研究してみるとよいでしょう。

いろんな文献から新しい事実が引き出せるかもしれません。

ちょっと、聖徳太子、聖徳太子といいますが、

この呼び名は、彼の死後100年以上たった751年にできた漢詩集「懐風藻」に初めて登場しました。

じゃ、それまでなんて呼ばれてたかって…

本当の彼の名前は厩戸皇子(うまやどのみこ または、うまやどのおうじ)

そのうち、教科書にも、厩戸皇子として聖徳太子のことを説明するようになるかもしれませんね。

その5 聖徳太子の政治

いよいよ、最初に書いた聖徳太子の政治に迫ります。

大王(天皇)を中心とする政治制度を作りたい…

これが、聖徳太子の政治の中心にあります。

先ほどから書いていたように、日本(大和政権を中心に…)は、荒れていました。

しかも、後継者問題で荒れていたのです。

あっちの豪族、こっちの豪族…

みんな勝手なことばかり…

それでは、大変ですよね。

とくに蘇我氏と物部氏は、皇族と血縁関係にあります。

そんな氏は、なおさら、力を入れて、声を大にして言いたい、実力行使をしたいって

思うのは当然だと思います。

「氏」は血縁関係の集団と書きました。

そうなんです。

どうせ、血縁関係の集団をつくるのが主流なら、

天皇中心にすればいいじゃないか…

ってきっと、聖徳太子は考えたんではないでしょうか。

内政不安のなか、お隣、中国や朝鮮も色々と大変な時期を迎えていたことを

先ほど書きました。

一国の主ともなれば、どのようにかじ取りをしなければいけないのかを考えなければいけません。

国内の情勢を考えるだけでなく、

対外政策も考えておかなければなりませんよね。

外交政策をきちんと考えておかなければ、

隣国に攻め込まられたら大変です。

え、いまの北朝鮮問題?

というわけでもないですが、

平和的解決を対話を重ねることによってしてほしいと願うばかりです。

さてさて、

天皇中心の中央集権国家を築きたかった聖徳太子がつくった政治制度のは…

① 冠位十二階の制度(603年)

② 十七条の憲法(604年)

③ 遣隋使の派遣(607年)

それでは一つ一つを見ていきましょう。

① 冠位十二階の制度(603年)

 この制度は、かんむりの色などで地位を区別します。

この制度が制定する前は、家柄によって大和政権(王権)の地位や役職が決定していました。

この冠位十二階の制度では、家柄にとらわれることなく、能力や実力を中心に

才能や功績が認められたら、役人として採用されたのです。

つまり、

 血統主義→実力主義

この制度は、いままでの「氏」という集団の考えを一掃して

どんな家柄でも大和政権のもと役人として役立つことができるという画期的な制度だったのです。

しかも、色で地位を区別するため、視覚にも訴え、普段からアピール。

初対面でも、この人は、こんな人ってすぐにわかりますよね。

 紫色:大徳、小徳

 青色:大仁、小仁 このころの青色は、紫に近かったと言われます。

 赤色:大礼、小礼

 黄色:大信、小信

 白色:大義、小義

 黒色:大智、小智

紫がえらくて、黒にいくにしたがって、下の役職となります。

服の色も合わせていたみたいですよ。オシャレですね。

② 十七条の憲法(604年)

 天皇の中心の中央集権国家を目指していた聖徳太子、決まりも作ります。

この聖徳太子は、信心深く仏教をも積極的に取り入れました。

仏教を取り入れた…って変ですよね。

仏教はインドで発生した宗教です。日本は、神道ですから。

中国の孔子が各地を回って伝えた儒学の考え方も取り入れました。

では、せっかくですから、全文を書いてみましょう。

第一条 一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有黨。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。

読み下してみると… 
一に曰(い)わく、和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。

人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、

また隣里(りんり)に違(たが)う。しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、

事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

分かりやすく現代語訳すると... 
一にいう。和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。

人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。

だから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。

しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、

おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ。

第二条 二曰。篤敬三寳。三寳者仏法僧也。則四生之終帰。萬国之極宗。何世何人非貴是法。人鮮尤悪。能教従之。其不帰三寳。何以直枉。

読み下してみると… 
二に曰わく、篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とは仏と法と僧となり

則(すなわ)ち四生(ししょう)の終帰、万国の極宗(ごくしゅう)なり。

何(いず)れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。

人尤(はなは)だ悪(あ)しきもの鮮(すく)なし、能(よ)く教うれば従う。

それ三宝に帰せずんば、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん。

分かりやすく現代語訳すると… 
二にいう。あつく三宝(仏教)を信奉しなさい。3つの宝とは仏・法理・僧侶のことである。

それは生命(いのち)ある者の最後のよりどころであり、すべての国の究極の規範である。

どんな世の中でも、いかなる人でも、この法理をとうとばないことがあろうか。

人ではなはだしくわるい者は少ない。よく教えるならば正道にしたがうものだ。

ただ、それには仏の教えに依拠しなければ、何によってまがった心をただせるだろうか。

第三条 三曰。承詔必謹。君則天之。臣則地之。天覆地載。四時順行。万氣得通。地欲覆天。則致壊耳。是以君言臣承。上行下靡。故承詔必慎。不謹自敗。

読み下してみると…
三に曰わく、詔(みことのり)を承(う)けては必ず謹(つつし)め。

君をば則(すなわ)ち天とし、臣(しん)をば則ち地とす。天覆(おお)い地載せて四時(しじ)順行し、

万気(ばんき)通うことを得(う)。地、天を覆わんと欲するときは、

則ち壊(やぶ)るることを致さむのみ。ここをもって、君言(のたま)えば臣承(うけたまわ)り、

上行なえば下靡(なび)く。ゆえに、詔を承けては必ず慎みなさい。謹まずんばおのずから敗れん。

わかりやしく現代語訳すると…
三にいう。王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがいなさい。

君主はいわば天であり、臣下は地にあたる。天が地をおおい、地が天をのせている。

かくして四季がただしくめぐりゆき、万物の気がかよう。

それが逆に地が天をおおうとすれば、こうしたととのった秩序は破壊されてしまう。

だから、君主がいうことに臣下はしたがいなさい。上の者がおこなうところ、下の者はそれにならうものだ。

ゆえに王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがいなさい。

謹んでしたがわなければ、やがて国家社会の和は自滅してゆくことだろう。

第四条 四曰。群卿百寮。以礼為本。其治民之本。要在乎礼。上不礼而下非齊。下無礼以必有罪。是以群臣有礼。位次不乱。百姓有礼。国家自治。

読み下してみると…
四に曰わく、群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう)、礼をもって本(もと)としなさい。

それ民(たみ)を治むるの本は、かならず礼にあり。

上礼なきときは、下(しも)斉(ととの)わず、下礼なきときはもって必ず罪あり。

ここをもって、群臣礼あるときは位次(いじ)乱れず、

百姓(ひゃくせい)礼あるときは国家自(おのずか)ら治(おさ)まる。

わかりやすく現代語訳すると…
四にいう。政府高官や一般官吏たちは、礼の精神を根本にもちなさい。

人民をおさめる基本は、かならず礼にある。

上が礼法にかなっていないときは下の秩序はみだれ、

下の者が礼法にかなわなければ、かならず罪をおかす者が出てくる。

だから、群臣たちに礼法がたもたれているときは社会の秩序もみだれず、

庶民たちに礼があれば国全体として自然におさまる。

第五条 五曰。絶餮棄欲。明辯訴訟。其百姓之訴。一日千事。一日尚尓。况乎累歳須治訟者。得利為常。見賄聴  。便有財之訟如石投水。乏者之訴似水投石。是以貧民則不知所由。臣道亦於焉闕。

読み下してみると…
五に曰わく、餮(あじわいのむさぼり)を絶ち、欲(たからのほしみ)を棄(す)てて、明らかに訴訟(うったえ)を弁(わきま)えよ。

それ百姓の訟(うったえ)、一日に千事あり。一日すらなお爾(しか)り、況(いわ)んや歳(とし)を累(かさ)ぬるをや。

頃(このごろ)、訟を治むる者、利を得るを常となし、賄(まいない)を見て?(ことわり)を聴く。

すなわち、財あるものの訟は、石を水に投ぐるがごとく、

乏しき者の訴は、水を石に投ぐるに似たり。

ここをもって、貧しき民は則ち由(よ)る所を知らず。臣の道またここに闕(か)く。

分かりやすく現代語訳すると…
五にいう。官吏たちは饗応や財物への欲望をすて、訴訟を厳正に審査しなさい。

庶民の訴えは、1日に1000件もある。1日でもそうなら、年を重ねたらどうなろうか。

このごろの訴訟にたずさわる者たちは、賄賂(わいろ)をえることが常識となり、

賄賂(わいろ)をみてからその申し立てを聞いている。

すなわち裕福な者の訴えは石を水中になげこむようにたやすくうけいれられるのに、

貧乏な者の訴えは水を石になげこむようなもので容易に聞きいれてもらえない。

このため貧乏な者たちはどうしたらよいかわからずにいる。

そうしたことは官吏としての道にそむくことである。

第六条 六曰。懲悪勧善。古之良典。是以无匿人善。見悪必匡。其諂詐者。則為覆国家之利器。為絶人民之鋒釼。亦侫媚者対上則好説下過。逢下則誹謗上失。其如此人皆无忠於君。无仁於民。是大乱之本也。

読み下してみると…
六に曰わく、悪を懲(こら)し善を勧(すす)むるは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり。

ここをもって人の善を匿(かく)すことなく、悪を見ては必ず匡(ただ)せ。

それ諂(へつら)い詐(あざむ)く者は、則ち国家を覆(くつがえ)す利器(りき)たり、

人民を絶つ鋒剣(ほうけん)たり。また佞(かたま)しく媚(こ)ぶる者は、

上(かみ)に対しては則ち好んで下(しも)の過(あやまち)を説き、

下に逢(あ)いては則ち上の失(あやまち)を誹謗(そし)る。

それかくの如(ごと)きの人は、みな君に忠なく、民(たみ)に仁(じん)なし。これ大乱の本(もと)なり。

わかりやすく現代語訳すると…
六にいう。悪をこらしめて善をすすめるのは、古くからのよいしきたりである。

そこで人の善行はかくすことなく、悪行をみたらかならずただしなさい。

へつらいあざむく者は、国家をくつがえす効果ある武器であり、人民をほろぼすするどい剣である。

またこびへつらう者は、上にはこのんで下の者の過失をいいつけ、下にむかうと上の者の過失を誹謗(ひぼう)するものだ。

これらの人たちは君主に忠義心がなく、人民に対する仁徳ももっていない。これは国家の大きな乱れのもととなる。

第七条 七曰。人各有任掌。宜不濫。其賢哲任官。頌音則起。  者有官。禍乱則繁。世少生知。尅念作聖。事無大少。得人必治。時無急緩。遇賢自寛。因此国家永久。社稷勿危。故古聖王。為官以求人。為人不求官。

読み下してみると…
七に曰わく、人各(おのおの)任有り。掌(つかさど)ること宜(よろ)しく濫(みだ)れざるべし。

それ賢哲(けんてつ)官に任ずるときは、頌音(ほむるこえ)すなわち起こり、

?者(かんじゃ)官を有(たも)つときは、禍乱(からん)すなわち繁(しげ)し。

世に生れながら知るもの少なし。剋(よ)く念(おも)いて聖(ひじり)と作(な)る。

事(こと)大少となく、人を得て必ず治まり、時(とき)に急緩となく、

賢に遇(あ)いておのずから寛(ゆたか)なり。これに因(よ)って、国家永久にして、

社稷(しゃしょく)危(あや)うきことなし。

故(ゆえ)に古(いにしえ)の聖王(せいおう)は、官のために人を求め、人のために官を求めず。

わかりやすく現代語訳すると…
七にいう。人にはそれぞれの任務がある。それにあたっては職務内容を忠実に履行し、権限を乱用してはならない。

賢明な人物が任にあるときはほめる声がおこる。

よこしまな者がその任につけば、災いや戦乱が充満する。

世の中には、生まれながらにすべてを知りつくしている人はまれで、

よくよく心がけて聖人になっていくものだ。事柄の大小にかかわらず、適任の人を得られればかならずおさまる。

時代の動きの緩急に関係なく、賢者が出れば豊かにのびやかな世の中になる。

これによって国家は長く命脈をたもち、あやうくならない。

だから、いにしえの聖王は官職に適した人をもとめるが、人のために官職をもうけたりはしなかった。

第八条 八曰。群卿百寮。早朝晏退。公事靡。終日難盡。是以遅朝。不逮于急。早退必事不盡。

読み下してみると…
八に曰わく、群卿百寮、早く朝(まい)りて晏(おそ)く退け。公事?(もろ)きことなし、終日にも尽しがたし。

ここをもって、遅く朝れば急なるに逮(およ)ばず。早く退けば事(こと)尽さず。

わかりやすく現代語訳すると…
八にいう。官吏たちは、早くから出仕し、夕方おそくなってから退出しなさい。公務はうかうかできないものだ。

一日じゅうかけてもすべて終えてしまうことがむずかしい。

したがって、おそく出仕したのでは緊急の用に間にあわないし、

はやく退出したのではかならず仕事をしのこしてしまう。

第九条 九曰。信是義本。毎事有信。其善悪成敗。要在于信。群臣共信。何事不成。群臣无信。万事悉敗。

読み下してみると…
九に曰わく、信はこれ義の本(もと)なり。事毎(ことごと)に信あれ。それ善悪成敗はかならず信にあり。

群臣ともに信あるときは、何事か成らざらん、群臣信なきときは、万事ことごとく敗れん。

わかりやすく現代語訳すると…
九にいう。真心は人の道の根本である。何事にも真心がなければいけない。

事の善し悪しや成否は、すべて真心のあるなしにかかっている。

官吏たちに真心があるならば、何事も達成できるだろう。

群臣に真心がないなら、どんなこともみな失敗するだろう。

第十条 十曰。絶忿棄瞋。不怒人違。人皆有心。心各有執。彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理能可定。相共賢愚。如鐶无端。是以彼人雖瞋。還恐我失。我獨雖得。従衆同擧。

読み下してみると…
十に曰わく、忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違(たが)うを怒らざれ。

人みな心あり、心おのおの執(と)るところあり。彼是(ぜ)とすれば則ちわれは非とす。

われ是とすれば則ち彼は非とす。われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。

共にこれ凡夫(ぼんぷ)のみ。是非の理(ことわり)なんぞよく定むべき。

相共に賢愚なること鐶(みみがね)の端(はし)なきがごとし。

ここをもって、かの人瞋(いか)ると雖(いえど)も、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。

われ独(ひと)り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙(おこな)え。

わかりやすく現代語訳すると…
十にいう。心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。

人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。

相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。

自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。

皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。

おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。

こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。

自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。

第十一条 十一曰。明察功過。罰賞必當。日者賞不在功。罰不在罪。執事群卿。宜明賞罰。

読み下してみると…
十一に曰わく、功過(こうか)を明らかに察して、賞罰必ず当てよ。

このごろ、賞は功においてせず、罰は罪においてせず、事(こと)を執(と)る群卿、よろしく賞罰を明らかにすべし。

わかりやすく現代語訳すると…
十一にいう。官吏たちの功績・過失をよくみて、それにみあう賞罰をかならずおこないなさい。

近頃の褒賞はかならずしも功績によらず、懲罰は罪によらない。

指導的な立場で政務にあたっている官吏たちは、賞罰を適正かつ明確におこなうべきである。

第十二条 十二曰。国司国造。勿斂百姓。国非二君。民無兩主。率土兆民。以王為主。所任官司。皆是王臣。何敢與公。賦斂百姓。

読み下してみると…
十二に曰わく、国司(こくし)国造(こくぞう)、百姓(ひゃくせい)に斂(おさ)めとることなかれ。

国に二君なく、民(たみ)に両主なし。率土(そつど)の兆民(ちょうみん)は、王をもって主(あるじ)となす。

任ずる所の官司(かんじ)はみなこれ王の臣なり。何ぞ公(おおやけ)とともに百姓に賦斂(ふれん)せんや。

わかりやすく現代語訳すると…
十二にいう。国司・国造は勝手に人民から税をとってはならない。

国に2人の君主はなく、人民にとって2人の主人などいない。

国内のすべての人民にとって、王(天皇)だけが主人である。

役所の官吏は任命されて政務にあたっているのであって、みな王の臣下である。

どうして公的な徴税といっしょに、人民から私的な徴税をしてよいものか。

第十三条 十三曰。諸任官者。同知職掌。或病或使。有闕於事。然得知之日。和如曾識。其非以與聞。勿防公務。

読み下してみると...
十三に曰わく、もろもろの官に任ずる者同じく職掌(しょくしょう)を知れ。

あるいは病(やまい)し、あるいは使(つかい)して、事を闕(か)くことあらん。

しかれども、知ること得(う)るの日には、和すること曽(かつ)てより識(し)れるが如くせよ。

それあずかり聞くことなしというをもって、公務を防ぐることなかれ。

わかりやすく現代語訳すると…
十三にいう。いろいろな官職に任じられた者たちは、前任者と同じように職掌を熟知するようにしなさい。

病気や出張などで職務にいない場合もあろう。

しかし政務をとれるときにはなじんで、前々より熟知していたかのようにしなさい。

前のことなどは自分は知らないといって、公務を停滞させてはならない。

第十四条 十四曰。群臣百寮無有嫉妬。我既嫉人人亦嫉我。嫉妬之患不知其極。所以智勝於己則不悦。才優於己則嫉妬。是以五百之後。乃今遇賢。千載以難待一聖。其不得賢聖。何以治国。

読み下してみると…
十四に曰わく、群臣百寮、嫉妬(しっと)あることなかれ。

われすでに人を嫉(ねた)めば、人またわれを嫉む。

嫉妬の患(わずらい)その極(きわまり)を知らず。

ゆえに、智(ち)おのれに勝(まさ)るときは則ち悦(よろこ)ばず、才おのれに優(まさ)るときは則ち嫉妬(ねた)む。

ここをもって、五百(いおとせ)にしていまし賢に遇うとも、

千載(せんざい)にしてもってひとりの聖(ひじり)を待つこと難(かた)し。

それ賢聖を得ざれば、何をもってか国を治めん。

わかりやすく現代語訳すると…
十四にいう。官吏たちは、嫉妬の気持ちをもってはならない。

自分がまず相手を嫉妬すれば、相手もまた自分を嫉妬する。

嫉妬の憂いははてしない。それゆえに、自分より英知がすぐれている人がいるとよろこばず、

才能がまさっていると思えば嫉妬する。それでは500年たっても賢者にあうことはできず、

1000年の間に1人の聖人の出現を期待することすら困難である。

聖人・賢者といわれるすぐれた人材がなくては国をおさめることはできない。

第十五条 十五曰。背私向公。是臣之道矣。凡人有私必有恨。有憾必非同。非同則以私妨公。憾起則違制害法。故初章云。上下和諧。其亦是情歟。

読み下してみると…
十五に曰わく、私に背(そむ)きて公(おおやけ)に向うは、これ臣の道なり。

およそ人、私あれば必ず恨(うらみ)あり、憾(うらみ)あれば必ず同(ととのお)らず。

同らざれば則ち私をもって公を妨ぐ。憾(うらみ)起こるときは則ち制に違(たが)い法を害(そこな)う。

故に、初めの章に云(い)わく、上下和諧(わかい)せよ。それまたこの情(こころ)なるか。

わかりやすく現代語訳すると…
十五にいう。私心をすてて公務にむかうのは、臣たるものの道である。

およそ人に私心があるとき、恨みの心がおきる。恨みがあれば、かならず不和が生じる。

不和になれば私心で公務をとることとなり、結果としては公務の妨げをなす。

恨みの心がおこってくれば、制度や法律をやぶる人も出てくる。

第一条で「上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議しなさい」といっているのは、こういう心情からである。

第十六条 十六曰。使民以時。古之良典。故冬月有間。以可使民。従春至秋。農桑之節。不可使民。其不農何食。不桑何服。

読み下してみると…
十六に曰わく、民を使うに時をもってするは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり。

故に、冬の月には間(いとま)あり、もって民を使うべし。

春より秋に至るまでは、農桑(のうそう)の節(とき)なり。民を使うべからず。

それ農(たつく)らざれば何をか食(くら)わん。桑(くわ)とらざれば何をか服(き)ん。

わかりやすく現代語訳すると…
十六にいう。人民を使役するにはその時期をよく考えてする、とは昔の人のよい教えである。

だから冬(旧暦の10月~12月)に暇があるときに、人民を動員すればよい。

春から秋までは、農耕・養蚕などに力をつくすべきときである。

人民を使役してはいけない。人民が農耕をしなければ何を食べていけばよいのか。

養蚕がなされなければ、何を着たらよいというのか。

第十七条 十七曰。夫事不可独断。必與衆宜論。少事是輕。不可必衆。唯逮論大事。若疑有失。故與衆相辨。辞則得理。

読み下してみると…
十七に曰わく、それ事(こと)は独(ひと)り断(さだ)むべからず。

必ず衆とともによろしく論(あげつら)うべし。少事はこれ軽(かろ)し。

必ずしも衆とすべからず。ただ大事を論うに逮(およ)びては、もしは失(あやまち)あらんことを疑う。

故(ゆえ)に、衆とともに相弁(あいわきま)うるときは、辞(ことば)すなわち理(ことわり)を得ん。

わかりやすく現代語訳すると…
十七にいう。ものごとはひとりで判断してはいけない。かならずみんなで論議して判断しなさい。

ささいなことは、かならずしもみんなで論議しなくてもよい。

ただ重大な事柄を論議するときは、判断をあやまることもあるかもしれない。

そのときみんなで検討すれば、道理にかなう結論がえられよう。

☝どうですか。これが、十七条の憲法の全文です。意外と今に通じるものがあることがわかると思います。

中学生のレベルでは、第八条くらいまで覚えておけばよいでしょう。

③ 遣隋使の派遣(607年)

 さて、聖徳太子は隣の中国が隋という大きな帝国を築いたことを受け、

・日本の東アジアでの立場を有利にしょう。

・隋の進んだ制度や文化を取り入れよう。

ということで、小野妹子などを隋に使者を送ったのです。

もちろん、留学生や僧も同行させました。こうして、隣国との外交も進めていきました。

実は、当時、日本は倭(小さな国)と呼ばれていました。

そして、中国の歴史書には、600年にも、隋に使者を送ったとされています。

ただ、この600年のときは、まだ、外交手段もとぼしかったので日本書紀にも記されず

国書も持っていかなかったそうです。

この使者たちを遣隋使と呼んだのです。

きちんとした遣隋使が始まったのは、607年。

非公式なら600年に遣随使がはじまりました。

そして、618年の隋が滅びるまでの間、5回(600年の非公式な外交を含む)にわたって隋に遣随使が送られました。

よく、そこで引用される逸話をご紹介しましょう。

日出づる処の天子、書を日没する処の天子にいたす…

という小野妹子がもっていった国書の書き出しの部分です。

これを煬帝に見せたのは小野妹子。よくも命があったものだと思います。

なぜなら、

・天皇が自分を天子と称した。→煬帝は、「天子が東西に二人もいるはずがないじゃないか」と激怒!

というわけです。

とにかく、信心深かった煬帝のためにも、たくさんの僧を遣隋使に同行させたのは、よかったですね。

ちなみに、「日本」という呼び方は始まったのは遣唐使の時代と言われています。

その6 飛鳥文化

日本は、もともと神道が中心の国でした。自然の神を信じていた当時の日本人。

隋の煬帝も聖徳太子も仏教を重んじていました。

だから、遣随使に僧もたくさんいました。

一国の主がそうであれば、仏像や経典が百済から朝廷に送られてもだれも咎(とが)めませんね。

体系的にまとまった仏教は、当時の日本人に偉大な考えだと受け入れられたのです。

もちろん、当時の中央に勤める人たちだけの話で、

一般庶民にとっては、ほとんど関係がありませんでした。

いままでの豪族たちは、でっかい古墳をつくることで権威を示そうとしていました。

仏教が入ってくると、この古墳がお寺の建立に変わっていったのです。

この仏教が伝わったことにより、死後の世界の幸福論や病気の回復のための祈りをするようになったのです。

血縁関係にもある蘇我氏は、聖徳太子と一緒に仏教を広めました。

大王のいた飛鳥地方を中心に日本初の仏教文化が栄えたのです。

なんといっても地元ですから…

この文化を「飛鳥文化」と呼んでいるわけです。

法隆寺金堂の釈迦三尊像はその代表とされています。

この釈迦三尊像は、中国竜門の石仏のそっくりさんですよ。

よく違いを押さえておきましょう。

この釈迦三尊像の後ろには、聖徳太子の一族らが、「聖徳太子の病が治るように

渡来人たちに作らせた、でも、そのかいもなく聖徳太子はなくなってしまった。」

と書かれているそうです。

大陸からの影響を受けた「飛鳥文化

ほかにもたくさんのそっくりさんの作品が登場する「飛鳥文化


新羅の弥勒菩薩(7世紀初め)vs 広隆寺の弥勒菩薩像(7世紀前半)

アジャンタ石窟(せっくつ)の壁画(5~6世紀)vs 法隆寺金堂の壁画(7~8世紀)


どうです?

まるで、中国のディズニーランドもどき…

みたいですね。

これらは、渡来人の望郷の念の表れともいえますが、

南北朝時代の中国やインドそして、もっと遠い西アジア地域の文化の影響も

受けていた「飛鳥文化」だったのです。

さて、それでは、問題です。

問題:聖徳太子はどのような国をつくろうとしたのでしょうか。

答え:仏教を基調とした大王を中心とした国。

その7 系図の読み方について


縦書きの場合を説明します。

系図は、上から下へ書かれ、上に行くほどさかのぼっていきます。

縦の位置関係:親子関係

横の位置関係:兄弟・姉妹関係

夫婦関係:二重線

ちなみに、聖徳太子と推古天皇の関係を「家系図」をみてみましょうと書きましたが、

結構、複雑なことがわかります。

母がちがえば、兄弟と姉妹どうしでも結婚が許されていたんですよ。

いまでは、禁止されていますが…。

歴史を学んでいると、いろんなことがわかってくると思います。

過去のことが実は、現在に活かされていることって

意外とたくさんあるものなのです。

それでは、今回はこの辺でおしまいにしましょう。





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